<高山市でピラティス>体の変化との付き合い方。私の場合。

今日も皆さんと楽しく「ピラティス@Seeds」レッスンしてきました☆

さて、最近グループレッスンさせて頂いても、個人レッスンでも感じること。それは、

「体に意識を向け始めてしばらくすると、今まで見ていなかった体の違和感等に気付き始める」ということです。

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せっかく心地よく体と付き合うためにピラティスを始めたのに、違和感に気付くのはヤダな~、、、って思われる方もいらっしゃると思います。確かにっ!

最初の数回は「快調☆」って感じますね。それで回を重ねると「アレ?以前は感じていなかったココ、なんかオカシイなあ」となる。

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私が教えさせて頂いているピラティス(私は自分のスタイルを「ソマティック・ピラティス」と名前を付けています。脳の回路の変化を促すことに重きを置いたピラティス、ということでそう命名しています)は、とにもかくにも「まずは今まで体を固めていた力を抜いてみましょう」を最優先してクラスをリードしています。というのも、体は本来とっても有機的な動きをしているもの。例えば手首ひとつ動かすだけでも、全身が実は駆動しています。この有機的な動きをひとまず取り戻すことが機能的な身体、と定義しているからです。

今まで体を固めていた力を抜いてみると、色々な部分が再び動きだします。そうすると、今まで動いていなかった所が動き出すので、心地よさに気付くこともあれば、違和感に気付くこともあります。

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この違和感とどう付き合うかのアプローチ次第で「苦行的」になるか「インスピレーション的」になるか別れると思うのです。

体はいつも変化しています。それが生きてということではないでしょうか。私もいつも「おお。私の体のここは実はこう動いていたのかあ!」「なんとっ。腰の弱さは腰そのものの機能ではなくて膝からきていたかあ。膝、痛っ!お。足の指を使ってなかったらしい。(使ってみる)お。膝は痛くなくなった」とか日々やってます(笑)ただの体オタクと言われればそれまでなんですが、体が変わるということは人生のフィロソフィーまで変わってしまうくらいのインパクトがあって、新しい視点で日々を過ごせることが楽しいのです。

確かに痛みなどの不具合はまあ、嫌なものですが、それによって今まで気づいていなかったことに気付けるなと思っています。そして「痛み、嫌!!!」と拒否するより、ちょっと冷静に「自分の体は実はどうやって動いているのかな?」ってニュートラルな気持ちで観察してみる。そうすると、色々見えてくるのではないでしょうか。

分かりにくいね~。。。ので、私の個人的な例を挙げてみようかな。

<浜口徹子の場合>

先日、「よし☆体パワーを上げてくぞ。育児にかまけて数年間怠けていたけど、再び日々のピラティスやストレッチを再開しよう。そしてジョギングをしよう☆」

と(たったの)15分走りました。まあ~気持ちよい。スッキリ!これは毎日やるわ~☆☆

で、次の日。なんと。階段を下りれないではないの。左膝の外側に激痛じゃないの。なんだこりゃ!?

私は以前舞台で踊るコンテンポラリーダンサーだったのですが、怪我が多かった。左膝はヨーロッパ公演を目前に控えた時に突然ディレクターに「この役やってくれ」と言われて夜中まで過酷な練習をしていまして、それである夜、ジャーンプ→膝を折ったポーズにシュっと着地、の着地を失敗して「バキッ!!!」と音がしまして、靭帯が切れるまではいかなかったもののかなりの損傷。しかし、ヨーロッパ公演に穴をあけるわけにはいかず、針に通いまくり、飛行機での移動中は常に脚上、アイシング、鍼灸師に持たされた針を打つ、の繰り返しでどうにかこうにか公演を終えたという感じでした。

「ああ。あれだな。あの時の膝だ。」と今回の激痛でまず思い出しました。

しかしですね。まず第一にそもそもダンサー時代にやった怪我はなぜ起こったかということですね。今回の激痛をきっかけに左膝の動き方に意識を向けてみました。すると見えてきました。自分の癖が。端的に言えば膝が内側に入り、脛から下は外側に逸れている形でずっとやってきたわけです。普段もね。つまり、左足は大地を踏みしめてはいないということですね。大袈裟に言えば左足を引きづって歩く癖がある、ということです。右脚しか、フルパワー稼働してないじゃないのっ。

体の左半身は女性性を、右半身は男性性を象徴していると言われています。ここで言う女性性、男性性はかいつまんで言うと女性性=受動性、男性性=能動性。私はとにかくガムシャラに頑張ることは得意だけれど、自分や周りの感じを受け止めて適切によい時を待ったり、受け止めることは苦手でした。左脚が「違うわ。今じゃない。そっちでは無理がかかる」と教えてくれても「いいえ!こっちに行きたいからこっちに行くのです!」と右脚は左脚を引きずってでも突き進んでいっていた、という図。さあ。もう大人だ。大人にいこう。要はバランスだ。陰陽のバランスよ。

それでフェルデンクライスを夜に深ーく、静かーに、行いました。腰の動き、膝の動き、首の動き、目の動き、を観察しました。

次の日。なんなく痛みなく階段が下りられました。

たぶん、ここで私の中で最も大切なギフトは「膝が痛くなくなった」ということよりも「左脚、しいては左半身を再び自分のパワーとして私全体に取り戻そう」と決心できたこと、今までそうではなかったことに気付けた、だったと感じています。

<まとめ>

「解決」(ここでは体の不具合)に向かおうと思った時、その道中で沢山の「気づき」やインスピレーションが起こると思います。それを何より、楽しんでいかれたらなと私は個人的には思っています。モシェ・フェルデンクライスの言葉を借りれば「治療、ではなく進歩」。痛くなかった状態に戻す、のではなく、更に進歩していった結果痛みがなくなる。そんなだったらいいと私は思っています。

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